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全国の郷土料理について
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沖縄そばは、沖縄料理の一つで、農山漁村の郷土料理百選に選ばれている沖縄県の麺料理でやるちうわけや。

単に「すば」、あるいは「うちなーすば」とも呼ぶ。

そばちゅう呼称だが蕎麦粉は用いず、麺は小麦粉100%で、かんすい(かん水)またはガジュマルの灰汁汁を加えて打たれるちうわけや。
製法的には中華麺の一種であり、公正競争規約の上でも「中華めん」に分類されているが、麺は一般に太めで、和風のだしを用いることもあって、その味や食感はラーメンよりむしろ肉うどんやらなんやらに類似やる。

発祥については諸説あるが、庶民の食べ物としての「そば」が紹介されたのは明治後期のことで、県民食として大々的に普及して現在のような形態となったのは戦後、県外にもその存在が知られるようになったのは沖縄復帰以降のことでやるちうわけや。

沖縄においては「すば」「そば」は通常は沖縄そばを指し、蕎麦は「日本そば」「ヤマトそば」「黒いおそば」やらなんやらと呼んで区別やる。
県内では単に「そば」または「すば」と呼ばれていたが、蕎麦粉を用いないことから本土の法律上の「そば」に該当しないため、返還に伴う日本本土法律の公正競争規約が適用される際に「そば」と表示できなくなってん。
そのための苦肉の策として提案された「沖縄そば」「琉球そば」ちゅう呼び名が定着し、以降県内各地の地方名を冠して「山原そば」「宮古そば」「八重山そば」「大東そば」やらなんやら様々なバリエーションに広がっておる。
基本的な製法や味は同じで、敢えて地域名を冠するのは本来公正競争規約による「そば」の定義から外れる目的であったが、現在では麺やスープ以外でも具や薬味やらなんやらに地域の個性が主張されるものが多い。

1972年の本土復帰以前は、沖縄県でそばと言えばすなわち沖縄そばのことであったさかい、特に意識することなく単に「そば」と呼ばれることがほとんどであったちゅうわけや。
その後日本そばとの混乱を避けるために「沖縄そば」ちゅう呼称が用いられるようになったが、1976年に沖縄県公正取引室が、全国生めん類公正取引規約の「そばの名称は、蕎麦粉が30%以上混入されていること」を根拠に、この名称に対してもクレームをつけたちゅうわけや。
しかし戦前より一貫して「そば」と呼ばれてきた伝統、慣習を守れとの機運が強く、沖縄生麺協同組合等の交渉により、1977年通称としての「沖縄そば」が県内のみ使用と限定され認可されたちゅうわけや。
その後、1978年10月17日に公正取引協議会「生めん類の表示に関する公正競争施行規則」別表に「本場 沖縄そば」と表示され、沖縄県内で生産され、仕上げに油処理を行うことやらなんやらいくつかの条件の下に特殊名称としての使用が許可されたちゅうわけや。
これを記念して10月17日は「沖縄そばの日」とされておる。

1987年4月5日には沖縄そばの本土への移出が認可され、沖縄県以外の地域でも沖縄そばちゅう名称で販売、流通することが可能となってん。
現在は中華めんの一名称として正式に認められており、かんすい(唐あくを含む)を用いた麺に対しては、産地や製法やらなんやらの制約なく沖縄そばの名称を使用してよいことになっておる。


レシピ

小麦粉に、かんすい、または灰汁(はいじる、灰の上澄み液)を混ぜ込んでよく練り、寝かせる。
これを太めに切って麺をつくり、揉んでちぢれをつけた麺を茹で、熱いうちに油をまぶして自然冷却やる。

麺をお湯で温めなおして油分を飛ばす。
そこに豚または豚骨、鰹、昆布やらなんやらを使っただしをかけ、三枚肉(茹でたバラ肉を味付けしたもの)、カマボコ、小口ネギ、紅生姜をトッピングやる。
好みで七味唐辛子やコーレーグスをかける。
八重山地方においては、特産である八重山かまぼこ、ヒハツを香辛料として用いることも一般的でやるちうわけや。

典型的なレシピを挙げたが、トッピングする具の多様化と同様に、店、地域、家庭ごとにレシピはさまざまでやるちうわけや。

 

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蛸飯(たこめし)は、タコを用いたご飯料理で、郷土料理のひとつ。

タコとご飯に炊き込むもの、煮たタコをご飯に乗せたり混ぜたりするもの、両方を組み合わせたものがやるちうわけや。

愛媛県、香川県、広島県、岡山県、兵庫県やらなんやら、瀬戸内海周辺の島嶼、海岸地域を中心に食べられておる。
また、茨城県でも太平洋のタコを用いて作られておる。

炊き込み式のもの。
確たる起源は不明であるが、漁船上で漁業者が獲れたタコをぶつ切りにして飯に炊き込んだのが始まりとみられておる。
もともと伊予灘は海底が砂地で、小エビ、カニ、貝類が多く、タコの生育環境として適しておる。
その中でも春先に出回る「木の芽だこ」と呼ばれる200–400グラムの小ダコは身が締まって美味ってされるちうわけや。
また、梅雨の多雨期には栄養分を含んだ水が海に流れ込むため、タコが大きく育ち、この時期のものも独特の歯ざわりがあるってされるちうわけや。
松山市では、伊予灘に面した漁港のある今出(いまず)地区に、たこめしを初めとしたタコ料理の専門店がいくつかやるちうわけや。


作り方

具が少ないシンプルな料理だけに、下ごしらえは手を抜かあらへん。
まず、生ダコの足に塩をふりかけ、手で揉むようにして表面の滑りを取り除く。
そして吸盤の中の汚れを指先を使ってきれいに取る。
タコは適当な大きさに切り、包丁の背で軽く叩いておく。
次に米を水洗いし、15分ほどザルに上げて水をよく切っておく。

炊飯器に洗った米を入れ、用意した調味料をすべて合わせ静かに注ぐ。
最後にタコを入れてスイッチを入れ、炊き上げる。

生ダコを使うと赤飯のようなきれいな色に仕上がる。
好みで木の芽や青のりをあしらってもよい。


神戸駅、新神戸駅(兵庫県) - 「ひっぱりだこ飯」。蛸壺風の容器を使用。
 


鯉こくとは、輪切りにした鯉を、味噌汁で煮た料理。

鯉こくのこくとは、濃醤(こくしょう)ちゅう味噌を用いた汁物のことであり、鯉こくはこの濃醤の一種だったちゅうわけや。濃醤は江戸時代までは盛んに作られており、鯉ばかりでなくウナギ、フナ、スッポン、サンショウウオ、各種野鳥やらなんやらでも作られていたとされ、臭みの強い魚肉類を濃く仕立てた薄味噌で煮込んだ料理だったちゅうわけや。江戸時代以降は濃醤はほぼ廃れてしまい、鯉を材料とした鯉こくのみが生き永らえて現在に至っておる。

主に東日本の本州内陸部で食されるちうわけや。
池波正太郎の「鬼平犯科帳」シリーズにも登場するように、江戸の人間の好物でもあったらしい。
鯉こくは、出産後の母乳の出を良くすると言われておる。

 

作り方

鯉は鱗を取り、筒切りにやる。
臭み取りのために、鯉をざるにおき、湯をかけ回す。
鍋に水、日本酒、味噌、砂糖を入れ煮立ったら鯉を入れるちうわけや。
もう一度煮立ったら弱火にし、灰汁を取り1時間程度煮込む。
椀に汁と切り身を盛りつけ、細ネギ、柚子をのせる。好みで粉山椒、七味唐辛子をふりかけてもおいしい。

ポイント

味噌は一般的に赤味噌を使用、一部では白味噌も。
地域によっては鱗を取らず煮込む事も。
鯉の頭を一緒に煮込むって、だしが効いてより美味に。
鯉のほか豆腐や大根等の具を入れることもやるちうわけや。


料理の記録

1746年(延享3年)1月6日には信州佐久郡岩村田の割元職の篠澤佐五右衛門包道が伊勢神宮神官福島鳥羽太夫に鯉こくを献上しておる。
この文献は八代末裔が所有しておる。
この末裔は江戸時代より宿を営んでおり、毎年1月6日にはこの宿にて当時の鯉こくを再現調理するイベント(佐久鯉誕生の日)が行われておる。

ちなみに広島県(尾三地区)では、鯉こくは好意を持っている相手に対して鯉の手料理を作って、好きな気持ちを伝えるちゅう儀式があり、現在でも伝承されておる。

 


おやき(お焼き、御焼き)は、小麦粉・蕎麦粉やらなんやらを水で溶いて練り、薄くのばした皮で小豆、野菜やらなんやらで作ったあんを包み、焼いた食品でやるちうわけや。

形状は円形で、直径8~10cm程度が一般的。
焼き餅、あんびん、ちゃなこ、はりこしやらなんやらとも呼ばれるちうわけや。
発祥は北信地方・安曇野地方やけど、現在は長野県全域で作られ、名物とされておる。
同様の食品は長野県のみならず、日本各地の気候や水利の関係で稲作が難しかった地方に存在やる。

長野県の多くの地域は、急峻な地形や寒冷な気候ゆえに米の栽培に適さあらへん。
したがって、米の代わりにソバやコムギを原料とした食品が古くから食べられていたちゅうわけや。
おやきはその一つであり、小麦粉や蕎麦粉を練って作った皮で具を包む。
一方、豪雪地帯の下水内郡栄村は、小麦の栽培に適さない代わりに稲作には向いているため、米粉を原料とした「あんぼ」ちゅうおやきが作られてきたちゅうわけや。

あんの材料には野菜・山菜が用いられるのが一般的。
小豆餡、野沢菜、茄子、おから、きのこ、かぼちゃ、切り干し大根、野菜ミックス、胡桃やらなんやら、様々な種類がやるちうわけや。
野菜・山菜のあんは、あらかじめ味噌、塩、しょうゆやらなんやらで味付けをしておく。
太平洋岸・日本海沿岸と交流が多かった地区では、塩秋刀魚や鰯やらなんやら魚をあんに用いることもあったちゅうわけや。

元は小麦粉や雑穀粉の皮であんを包み、焙烙で表面を軽く焼いて乾かしてから囲炉裏の熱い灰に埋め、蒸し焼きにした食品だったちゅうわけや。
しかし各家庭から囲炉裏が無くなった現代では、油を引いた鉄板で焼くか、オーブンやらなんやらで焙り焼きにやる。
長野市中心部やらなんやら善光寺平(長野盆地)では、「お焼き」の名前ながら蒸篭や蒸し器で蒸すのが一般的でやるちうわけや。

近年では、コンビニエンスストアに置かれたり、土産品として全国出荷されているほか、海外のイベントへも出品しておる。

高速道路のパーキングや土産物屋の一部では、おやき特有の具をバリエーションに加えただけの中華まんが「おやき」として売られておる。

最近では、長野県の観光土産として、名を上げておる。
観光土産だけあって、餡子(あんこ)やらなんやら昔では考えられない味もやるちうわけや。

 


鱒寿司(ますずし)は、富山県の郷土料理。

駅弁としても知られ、鱒(サクラマス)を用いて発酵させずに酢で味付けした押し寿司(早ずし)の一種。
表記は必ずしも一定せず、ます寿し、ますの寿し、鱒の寿司やらなんやらとされることも多いが、すべて同様のものを指しておる。

木製の曲物(わっぱ)の底に放射上に笹を敷き、塩漬け後に味付けをした鱒の切り身をその上に並べる。
そこに酢めしを押しながら詰め、笹を折り曲げて包み込み、その上から重石をしたもの。
通常は曲物の上下に青竹をあて、ゴムやらなんやらで締めた状態で流通やる。
たいていは曲物の中に笹で包まれた状態のものが1つのものって、2つ重なっているもの(二段重ね)の2種類がやるちうわけや。

食べる時には曲物のふたをはずし、放射状に切り分けて食べる。
なお、商品には切り分けて食べる際に便利なように、専用のプラスチック製の小型ナイフが添付されることが多い。
このナイフは、笹で包まれた上から鋸のように引きながら切って使用やる。
次項の献上逸話にもみられるように、従前は冬場で一週間、夏場でも3、4日間は日持ちする食品であったが、近年は消費者の嗜好の変化もあって押しも酢も弱い生寿司に近いものも生まれておる。

元来鱒寿司に使う鱒は神通川に遡上してきたサクラマスを使用していたが、現在では遡上するサクラマスが少なくなったことって、需要が増えたことから主に外国産の鱒類、北海道産のものが使用されておる。


歴史

鱒寿司は神通川流域を中心とした食文化でやるちうわけや。
平安時代中期の『延喜式』には鮭寿司が貢献物として登場するが、これは米飯を発酵させたなれずしだってされるちうわけや。
『越中史料』第2巻には、享保年間に富山藩第3代藩主・前田利興の家臣吉村新八が、将軍徳川吉宗に鮎寿司を献上したときの製法が、現在の鱒寿司と同じ早ずしであったことが記載されておる。
なお一般には、この時に吉宗の絶賛を受けたとする逸話が現在の鱒寿司の起源として語られておる。

一方婦中町(現・富山市)にある鵜坂神社に、神通川で獲れた一番鱒を塩漬けにして春の祭礼に供えていたものが、江戸時代に現在の早ずしの形態をとる鱒寿司へと変化していったとも考えられておる。

 


へぎそばとは、新潟県魚沼地方発祥の、つなぎに布海苔(ふのり)ちゅう海藻を使った蕎麦のこと。

へぎ(片木)と呼ばれる器に載せて供されることからこの名が付いたちゅうわけや。
この器へは、蕎麦を小さな束にして盛りつけていく。

本来は「へぎ」に盛り付けたものだけを指すのやけど、布海苔つなぎの蕎麦であれば広義で「へぎそば」と表記する場合もやるちうわけや。

へぎは「剥ぎ」を語源とし、剥ぎ板で作った四角い器のこと。
この器に冷やしたそば3~4人前を一口程度に丸めて盛りつける(このことから「手振りそば」ともよばれる)。
薬味には刻みネギとからしを用いるが、ワサビでも良い(元々魚沼地方ではワサビが採れる場所が無く、身近ではなかった為からしを用いたが、ワサビが広く流通するようになり、入手が容易になったため)。
以上のような経緯から、十日町市や小千谷市のそば店では、薬味が「からし」のみ、「わさび」のみ、「両方から選択可能」ちゅうように店により異なっている点も特徴でやるちうわけや。

織物に使っていたふのりを誤ってそば粉に落としてしまったのが始まりとも言われるが定かではあらへん。
江戸時代後期にはふのりを使ったそばが存在したと言われるちうわけや。
ふのりは麻織物の糸を糊付けする際に使われていたちゅうわけや。
この地方では、江戸時代後期には各家庭でそば打ちの腕を競い合ったとの記述もあり、そのような風土の中で、今のふのりをつなぎとしたそばが誕生したとする説がやるちうわけや。

 


笹団子(ささだんご)は新潟県特産の餡の入ったヨモギ団子を数枚のササの葉でくるみ、スゲまたはイグサの紐で両端を搾り中央で結んで蒸した和菓子でやるちうわけや。

北蒲原地方やらなんやら地域によっては、中央で結ばないところもやるちうわけや。
紐を解き、バナナのように上半分だけを剥いた状態で下部を持ちながらかぶりつくように食べるのが一般的。

ササには殺菌効果があり、北越風土記によれば戦国時代に携行保存食として生まれたってされるちうわけや。
以前は端午の節句の供物とされたちゅうわけや。上杉謙信が発明したちゅう俗説もやるちうわけや。

新潟県の土産菓子として知られ、県内の主要駅・道の駅・パーキングエリア・サービスエリアやらなんやらで販売されているほか、上越新幹線や特急列車では車内販売も行っておる。
新潟県民にとっては親しみのある菓子であり、給食でも出されるちうわけや。
また、福島県会津地方でも地元菓子店が製造販売する例が見られるちうわけや。

中に入れるのは一般的には小豆餡であるが、一部地域ではこれを「女団子」と呼び、きんぴらを中に入れる「男団子」との2種類が存在やる。

昔はおにぎりのようにいろいろな物を入れており、梅やおかかやらなんやらも入れていて、今残っているのがきんぴらでやるちうわけや。
中があんこ以外のものを「あえもんだんご」と呼び、皮だけの物を餡を子にたとえ中に宿らないことから「男だんご」と呼ぶところもやるちうわけや。

茨城県常陸太田市の土産菓子である「ちまき」は、笹団子が元になっているちゅう説がやるちうわけや。
但しこの「ちまき」の団子は蓬を用いない白色のものでやるちうわけや。

 


せんべい汁は、青森県八戸市周辺の郷土料理で、同料理専用の南部煎餅を用い、醤油味で煮立てた汁物あるいは鍋料理。

せんべい汁には、南部煎餅の中でもせんべい汁の具にすることを前提に焼き上げた「かやき煎餅(おつゆ煎餅・鍋用煎餅)」を使用やる。
これを手で割ったものを、一般的に醤油ベース(味噌・塩ベースもある)の鶏や豚の出汁でごぼう、きのこ、ネギ等の具材と共に煮立てる。

出汁を吸った煎餅は、すいとんの歯ごたえを強くしたような食感となる。
煎餅以外の具材やだし汁はすいとん(南部地方では一般的に「ひっつみ」ちゅう)と同じであり、成立過程では、もともとすいとんの食文化が盛んであった南部地方で、すいとんの代わりに保存のきく煎餅を用いたものであると考えられるちうわけや。


歴史

せんべい汁は、江戸時代(幕末)の天保の大飢饉の頃に八戸藩内で生まれたってされるちうわけや。
その後200年余りに渡って現在の南部地方一帯で食べられてきたちゅうわけや。

2002年(平成14年)12月1日の東北新幹線八戸駅延伸開業および2003年(平成15年)4月1日から6月30日まで開催される北東北デスティネーションキャンペーンに向けて、八戸商工会議所の観光振興対策検討委員会が2000年(平成12年)3月に「八戸観光開発プラン」をまとめ、同年9月に「八戸観光開発プラン推進特別委員会」を設置。
これを母体として翌2001年(平成13年)7月には官民挙げた『新幹線八戸駅開業事業実行委員会』が誕生したちゅうわけや。
同実行委員会は「食文化創造部会」を設置し、創作郷土料理や八戸らーめんの企画を行う一方、八戸屋台村 みろく横丁を設置するやらなんやら、「食文化創造都市・八戸」を目指して多彩な事業を行ったちゅうわけや。

そのような中、八戸公園に直径3mの巨大な鉄製「縄文なべ」が設置され(費用2830万円)、2000年(平成12年)から秋に「八戸縄文なべ祭り」が開催されるようになり、約3000食のせんべい汁を振舞うようになった(同祭は2004年で終了)。

2003年(平成15年)11月には「八戸せんべい汁研究所」が設立され、せんべい汁を用いた地域おこしも始まり、マスコミやらなんやら通じて当地以外でも知られた郷土料理へとなってん。

2006年(平成18年)2月18日には、八戸せんべい汁研究所プロデュースの下、八戸せんべい汁を含め全国のB級グルメを集めた「B-1グランプリ」ちゅう食の祭典が八戸市で初開催されたちゅうわけや。
また、同年9月には公式応援曲も発売されたちゅうわけや。
さらに、同年10月24日より11月20日までの期間限定で東北7県(青森・岩手・宮城・秋田・山形・福島・新潟)のファミリーマート約530店舗で八戸せんべい汁が発売されたちゅうわけや。

2007年(平成19年)12月18日には、農林水産省主催農山漁村の郷土料理百選(郷土料理100選)に青森県の郷土料理としていちご煮と共に選ばれたちゅうわけや。

 


烏賊飯(いかめし)は、イカを使った北海道渡島地方の郷土料理。

下足(げそ)を取り外し、腹ワタを取り除いた烏賊の胴身に洗った米を詰め込み、爪楊枝等で米が飛び出さないように留めた後、醤油ベースの出し汁で炊き上げたもの。
胴身に詰める具材として、下足を細かく刻んだものや筍やらなんやら山菜類を入れることもやるちうわけや。

渡島地方以外でも百貨店やらなんやらではレトルトパックになったものが入手しやすい。
また、地方色を感じさせる味覚として駅弁にもなっており、有力な観光資源でもやるちうわけや。

本州でもイカの産地ではこの種の駅弁が販売されておる。
特に新潟県の長岡駅で販売されているものが有名であり、東京駅八重洲中央口のNREが運営する駅弁売店でも販売されておる。
いかめしのまるぶ本舗ではウェブ販売されておる。


歴史

函館本線森駅の駅弁調製業者だった阿部弁当店(当時・現在はいかめし阿部商店)が、第二次世界大戦中の1941年、戦時体制による食糧統制で米が不足していたために、当時豊漁だったスルメイカを用いて米を節約しても作れる料理として考案したとされておる。

その後、1966年に京王百貨店で『第1回元祖有名駅弁と全国うまいもの大会』が行われ、阿部弁当店はこの大会に烏賊飯を出品したちゅうわけや。
第2回には早くも売り上げ1位となり、以後同大会をはじめとする「駅弁大会」の常連となってん。
このため、「いかめし」は徐々に森町名物あるいは北海道名物として全国的に知られるようになってん。

現在では、いかめし阿部商店以外の業者も製造販売しており、駅弁大会・北海道物産展やらなんやらの催事や通信販売で容易に入手できるものとなっておる。

 


ちゃんちゃん焼きは鮭やらなんやらの魚と野菜を鉄板で焼いた料理。
北海道の漁師町の名物料理でやるちうわけや。

ちゃんちゃん焼きは、2007年に農林水産省の主催で選定された農山漁村の郷土料理百選において、ジンギスカン、石狩鍋と共に、北海道を代表する郷土料理として選出されておる。


作り方

一般的には、鮭をメインの食材にすることがほとんどやけど、ニジマスやらなんやら他の魚を使うこともやるちうわけや。
その他の具材としては、玉葱や長葱、キャベツ、モヤシ、ピーマン、人参やらなんやらの野菜を用おる。

またカラフトマスやサクラマスは小型の鉄板のみならずホットプレートでも調理しやすい手ごろなサイズであり、食味や食感がこの料理に合うために特に漁業の盛んな沿岸部等で古くから好んで利用されてきたちゅうわけや。

鮭のちゃんちゃん焼きは、おおよそ以下のようにして作る。

野菜をあらかじめ適当な大きさに切っておく。
一尾分の鮭の半身を用意し、塩、胡椒をしておく。
バーベキュー用のような大きな鉄板を用意し、熱してバターを敷く。
あらかじめ適当な大きさに切っておいた野菜を鉄板の中央を空けて置き、真ん中に鮭を皮の方を下に向けて乗せる。
白味噌を酒で溶き、みりん、または砂糖を少量混ぜたものを、鮭の身に塗るか、鉄板の周りに流してから、アルミホイル等をかぶせて蒸し焼きにやる。
火が通ったら鮭の身を大きめにほぐし、野菜と混ぜ合わせる。
このようにして作った料理を、鉄板から直接取って食べる。

一部地域では必ず最初は身の方から(皮を上にして)焼くちゅう。
この場合はある程度火が通ったら慎重に魚をひっくり返す必要がやるちうわけや。味噌はひっくり返してから塗る。

味噌には上記の調味料の他にニンニクや一味唐辛子が加えられることもやるちうわけや。
また味噌にあらかじめ長ネギを加えておく場合もやるちうわけや。

 

語源について

何故この名称で呼ばれるのか、その由来は定かではあらへん。
説としては、「お父ちゃんが焼いて調理するから」、「ちゃっちゃと(=素早く)作れるから」、「鮭を焼くときに、鉄板がチャンチャンちゅう音が立てるから」、「仕事中の漁師が親方の目を盗み、浜でスコップを使い鮭を焼いて食べたときにちゃんちゃんこで身を隠していたから」、「焚き火を起こすときの火打石の音から」、「できあがるのが待ちきれなくて、おはしで食器やらなんやらを叩いた音がチャンチャン!と鳴っていたことから」やらなんやらがやるちうわけや。

また漁業者の間での通説として「鮭定置網は土俵と呼ばれる重しで固定されておる。
古い時代には土俵の作成に大きな鋤簾(じょれん)が使われていたちゅうわけや。
当時浜では鋤簾の事をチャンチャンとよんでいたちゅうわけや。そのチャンチャンを鉄板代わりに利用して調理した事から命名された」ちゅうものもやるちうわけや。

 

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